人生

人生①最初の記憶

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一番最初の記憶とはなんだろうか?

三つ子の魂百までというコトワザがあるがこれって三つ子の魂を表す記憶のように思う。

 

自分の場合は、、
母方のおばあちゃん家、商売屋をやっている関係もあってかなり歴史のあるフォルムの家である
そこの急すぎるらせん階段から頭から転げ落ちて泣いた経験だろう。
おそらく年末で、母も仕事、そういう関係もあって母の実家で預けられてたのだろう。
家の人は忙しく本当にその古い家で一人だけだったようだ。
誰に助けを求めるわけでもなく、痛みで泣いていた。ずっと泣いていた。

 

これが自分の最初の経験。なんだかその後の人生を印象づけているようでもある。
痛みを抱えて誰に訴えるわけでもなく一人で泣いていた。
ずっとそんな人生であった。、とはいわないけど今でも人に相談する、ということが苦手である。
自分で処理できるならそうするし。自分で処理できない場合は、、まぁ。僕の他の記事から想像がつくだろう。
fujisan_maru

僕は静岡県の富士市という街で生まれた。

富士川よりで、山ステージか街ステージかと問われたら海ステージ。
これだけで地元の人には大体場所は伝わる。

 

父は沼津市にある工場を営む一族であった。
自営業に近い規模で母も人手が足りないときは積極的に働いていた。
そんなことで保育園に僕は通っていた。
自称魔女の手品を使う先生とか、なんだかいろんな先生がいた。
ホイ卒という言葉があるが、僕のいた地域にも幼稚園もあったけど少し遠かった。
それに年末などの繁忙期に日が落ちてすっかり夜になっても預かってくれた保育園は母にとってありがたい存在だったのは違いない。
うちの保育園では月一くらいで運動会があったり芋煮会があったり学芸会があったりお店屋さんごっこがあったりで。
保育園でも色々やってたよ?たしかにお昼寝タイムは卒園するまでもあったけど。
ホイ卒、幼稚園卒のマウンティングは一部の都会だけでしかなりたたない、そう思うけどなぁ。
まぁネットスラングをまともに考えるのはこの辺にしておこう。

 

母がこんなエピソードをよく口にする。
我が家には庭と家の間に60cmくらいだろうか、そのくらいの高さのでっぱりがある。
大人だったら階段と大差ない、でも子どもだったら降りるときは飛び越えるとかのぼるときは乗りあげるとか、そういった一苦労が必要だ。
僕はその飛び降りる、が怖くてできなかった。
僕は知らない人にはあまり懐かない、しゃべらない人懐きのいい方ではないほうだった。
このことから母は自分のことをもしかしたら自閉症の気があるのではないだろうか。と考えた。

 

3歳くらいの頃だったか、妹が生まれる。

たいそうこの妹をかわいく思っていた。親に自分をとられた!っていうより妹のためにしっかりしなきゃな、と思っていた。
当時会社が本当に大変な時期だったのであろう、もしくは大きくなるためにヤッきになってたのかもしれない。
また父も(当時の父は僕と年があまりかわらない)人生の中で何ができるかをヤッきになって探していたのだろう。
仕事に関しても、そうでないところでも
とにかく両親の喧嘩が絶えなかった。

 

たしかレベルEだったかもしかしたらお茶づけ海苔だったかも。
とにかくなんかの漫画で、不仲の両親が喧嘩の絶えない家庭の子どもの漫画のお話
あるとき子どもの父親が夢をみる。自分が子どもの視点になって夫婦げんかを見るのである。
子どもが見ていたものは両親が醜悪な大きな獣になっておそろしい戦いを続けている、だけどその獣は両親その人であると確信できるそんな悪夢。恐怖そのものの光景だった。
お話のお父さんは改心し、子どもにあやまり、奥さんと仲良くすることを誓う。

 

我が家の場合もまさにそれで
母は今でもちょっとしたことでヒステリーを起こす。父もそれに呼応する。
すると怪獣大戦争のはじまりである。
これは妹もパニックを起こしかねない。
それを察すると僕は二階の子ども部屋で妹に本を読んだり、自分なりに考えたゲームで遊んだり。
一緒に恐怖を共有したり、とにかく嵐がすぎるまで、妹の気をまぎらわすことに徹した。
ピエロでもなんでもいい、妹を守るためにはなんでもやった。
今でもそんなことから妹から慕われていることを感じる。
保育園の頃はあまりゆがんだことはなかった気がする。みんなともうまくやっていた。
とにかく毎日が楽しかったしよく泣かされたきもするけどよく泣かしたきもする。

 

みんなそういったエピソードは持っているものかもしれないけど
離婚だなんだ、そいうい話まで喧嘩はエスカレートすることが多かった。
母はでも貴方の責任はとるよ、大学いくまでは実家で何不自由なく育ててみせる!責任はとる!と僕に言った。
母の実家は川を挟んでクルマで15分程度だろうか。
自転車にも乗れない子どもにとっては異世界である。外国とあんまり変わらない
今の環境を捨てて新しい環境で過ごす、想像できなかった。絶望感もあった。
この言葉は中学くらいまで母は僕にいい続けていた。

 

今は思う。この言葉が僕にとって責任って言葉が僕にとって薄っぺらく感じさせてしまってるんじゃないかって。
責任って言葉はこれからやることへの覚悟の言葉ではない、ましてや人や自分を責める重荷でもない。
継続された行動の結果、責任って言葉は生まれるものだ。と思っている。

 

そこそこ闇のある幼少時代を過ごした、と言えるかもしれない幼少期時代。
そんな僕は地元の小学校に入学する。
自分の闇に飲み込まれそうになったけどそれなりに楽しかった幼年期だったように感じる。

小学生編へつづく

2017年11月27日記す。

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